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●萩駅 ~午後の列車交換~ |
1991年 3月 |
2009年初稿・2020年 1月28日更新 |
萩市は山口県の日本海岸に面し、幕末期には多くの偉人を輩出したことや、
歴史的な名所旧跡が多く残る事に由来する観光都市と言えよう。
市街地は阿武川の三角州に発展したが、当地を通る山陰本線は何故かこの市街地には乗り入れず、
三角州の外周を大きく迂回する形で敷設されている。
萩市の旧市街部には、東萩駅、玉江駅、そして萩駅がある。これら3駅のうち、
中心市街に最も近いのが東萩駅だ。
東萩駅は以前に駅前の再開発がなされて近隣に商業施設のビルもあるなど規模が大きく、
当時は特急「いそかぜ」急行「さんべ」「ながと」も停車し、長門市方面からの区間列車も設定されていた。
また玉江駅も、町外れにある1面1線の棒線駅なのだが、旧市街への西側からのアクセスが良いため利用客は多く、
前述の急行はこの駅にも停車していた。
残る萩駅は、山口市に至る幹線道路である国道262号線が傍らを通るものの、
阿武川三角州の起点付近となる萩市街南端に位置することから、
利用者は前述の2駅に比べると少なく、最もローカルな存在と言える。
構内は交換可能な2面2線の相対式ホームで構成された、中間駅としてオーソドックスである一方、
駅舎は一般的な国鉄駅とはかなり趣が異なっていて、
日本の近代化とこの街の関わりや、開業当時の鉄道への期待の大きさを垣間見ることが出来る。
即ち、駅本屋はこの地域に良く見られる、屋根に破風をあしらった切妻平入りの構成だが、
当駅では両端上部を寄棟とする「半切妻」造にして、3つの優美な破風を配しているのみならず、車寄せも建物相応に大きい。
更に、建物外観は着色した柱を露出させて、白壁を配した木骨造となっていて、
地方都市の駅としては極めて立派な造りなのだ。
当駅の駅舎は、1996年に登録有形文化財に登録され、駅周辺の整備も進んだようだが、
私が訪れたのはそれ以前のことであり、当時は「妙に立派な無人駅」というイメージだった。
撮影に訪れたのは1991年3月のダイヤ改正直前だった。
このダイヤ改正では山陰西部の客車列車は大半が整理されてしまい、
当たり前に見られた客車列車同士の交換も激減することから、
交換がなくなる駅の一つとしてここ萩駅を撮影場所に選んだ。
撮影したのは、上りが3両編成の下関発益田行き828レ、
下りは遥々浜田からやってきた下関行き827レの4両編成だ。
午後3時半を過ぎた頃、両列車はほぼ同時に萩駅に進入する。
列車が近づいてもホームが旅客で賑わうことは無く、
機関車の甲高いブレーキ音と50系客車の軽薄なジョイント音は徐々に止んで列車が停止する。
停車した列車から聞こえてくるのは、50系客車特有の、自動ドアの淡白な開閉音と、
DD51のほのかなアイドリングだけだった。
結局、どちらの列車もこの駅では数人の旅客を乗降させただけで、
車掌氏は安全確認して手笛を吹き、戸閉め操作して車側灯の消灯を確認する。
携帯した無線機で運転士と交信すると、間もなくDD51は客車引き出しの衝撃も無く、
過給器のタービン音を残して萩駅から遠ざかっていった。
下りの827レは萩を出発すると、暫くは阿武川から分かれた橋本川を右手に見ながら玉江に至る。
そして玉江駅を過ぎると、線路は再び日本海の海岸沿いを走る。
列車は、あるときは入り江の波打ち際に沿って走り、
あるときは海に突き出た小さな鼻を短いトンネルでショートカットする、
といった山陰本線らしい風景を繰り返しつつ西進する。
海に近い集落の駅である三見と飯井を過ぎ、一旦内陸に入った後に、再び川沿いに開けた田園地帯の長門三隅に至ると、
次はいよいよ要衝の長門市である。
(1) | 本文中の写真は、すべてが動画と同時に撮影されたものではありません。 |
(2) |
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