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●西長門を往く ~山口県西部の50系客車~ |
1991年 3月 / 1992年 3月 |
2008年初稿・2020年 3月27日更新 |
瀬戸内側の山陽本線と並んで、日本海側の海岸線を往く山陰本線もまた、
総延長640キロにも及ぶ日本の鉄道を代表する長大路線だ。
この映像で紹介する1990年頃は、国鉄時代の長距離列車の多くが整理されたこともあり、
同線の運行形態は京都・大阪を基点として優等列車網で鳥取県や島根県東部を結ぶ、言わば「山陰東線」域と、
ローカル色が一段と濃くなる出雲市以西から山口県に至る「山陰西線」域の違いが顕在化してきた時期だった。
客車普通列車においては、
「山陰東線」域が晩年の形態であった鳥取県内の輸送力列車としての運用が既に定着していた一方、
「山陰西線」域では特に益田以西の区間で客車列車主体のダイヤが1991年3月改正まで残存していた。
この地域の客車列車は、1往復が下関から浜田まで乗り入れて往年の長距離鈍行を髣髴させていたほか、
下関~益田間に設定された列車は、直通するもの、長門市で分割されるもの、東萩や滝部で回転するものなど多彩だった。
運用される車両は、機関車が米子運転所のDD51(米)、
客車は下関運転所(広セキ)の50系だ。
益田以西の山陰本線の風景は、穏やかな白砂青松の海岸線に代表されよう。
松林が連続する入り組んだ海岸線に沿って、あるときは浜辺を、
あるときは海に突き出した鼻を短い隧道でショートカットする光景が連続する。
東西に長い山陰本線も最西端の山口県内では気候も穏やかであり冬季の積雪も無い。
ローカル線特有の両側分岐で分かれた2面2線の対向ホーム、残存する貨物側線跡、こじんまりした駅本屋、
といった私たちが連想する田舎の国鉄駅風景が点在する。
そんななかで、山陰のオールラウウンダーである米子区所属のDD51の無骨なB寒地装備が、
情景に適度な緊張をもたらしてくれる。
ビデオ映像で紹介するのは1991年3月改正直前に長門市周辺で撮影した、
朝から日中にかけての50系客車普通列車の走行風景をまとめたものだ。
朝の時間帯は、長門市以西では下関地区での通勤需要を考慮した5~6連となる。
また、長門市以東でも、沿線に点在する高校の通学輸送のために4連の列車が運行される。
そして、朝の時間帯を過ぎれば、浜田乗り入れ列車を除いて3連となる。
長門市以東では客車3両でも持て余し気味なのだが、下関が起点となる運用となっていたので、
3両連結の必要があったのだろう。
民営化直後に出雲市~益田あたりで運行されたような、客車2両の列車は見られなかった。
ビデオの最初のシーンは朝の輸送も一段落した午前10時過ぎに飯井~長門三隅間を下る535レ長門市行き。
続く海岸風景は、午後の下関行き847レが長門市~黄波戸間を駆け抜ける様子だ。
次いで、最初に紹介した535レが長門市駅での小休止の後に下関行きの825レとなり、
長門粟野駅で長門市行き852Dと交換する。
短編成の気動車にあっても、この頃は未だ多くの列車に車掌が乗務していた。
再び走行風景に戻り、お昼に黄波戸峠に挑む長門市行き842レ。
当地を走るDD51は例外なくB寒地仕様なのだが、
トンネル直前で吹鳴する警笛は九州配置の暖地向け機を思わせる少々軽薄な音色だった。
最後の情景は、夕方に長門市から下関へ向かう825レを長門古市~人丸間で捉えたものだ。
寒風が吹き付ける、油谷湾に向けて開けた谷筋の平地を、4両編成の列車は軽快に駆け抜けて行った。
朝夕を中心に、編成の自由度を生かして多数運転されていた山陰西部の50系客車列車は、
輸送形態の変化という潮流に加え、需要の低さ故に「山陰東線」域のような12系化による維持はなされず、
1991年3月改正で朝夕の輸送力列車としての4往復を残して廃止された。
この改正で残存した列車にあっても、特に益田~長門市間では朝の同一時間帯に走る上下各1本が存置となったことで、
仕業を終えた機関車と客車がセットで翌朝まで留置となる有様であった。
このような無駄な運用が長続きしようはずも無く、1年後には当地域での客車列車全廃の運命を辿ることになる。
(1) | 映像で紹介する情景の順序は、実際の時系列とは異なります。 |
(2) | 本文中の写真は、すべてが動画と同時に撮影されたものではありません。 |
(3) |
本稿の動画はご覧のウィンドウサイズに応じて最大1280×720ピクセルまで拡大、あるいは全画面表示ができます。 但し、元動画はアナログテレビジョン程度の解像度で撮影されたものですので、ぼやけた画像となることをご理解下さい。 |
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