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●終列車・柴山駅 |
1992年 4月 |
2008年初稿・2019年 8月11日更新 |
入り組んだ海岸線、迫り来る山並み、陰鬱な曇り空、そして雪景色。
兵庫県内の山陰本線には、餘部に代表されるような、私たちがイメージするそのままの鉄道風景が展開する。
ここ、柴山駅も深い入り江に程近いにもかかわらず、周囲を山々に囲まれた小駅だ。
構内配線は2面2線の対向ホームからなるオーソドックスなもので、
香住寄りの端部に設置された構内踏切で連絡するのは典型的な田舎の小駅だが、
駅全体がカーブの途中にあるためか、列車の運行は変則的だった。
即ち、駅本屋のある外側線ホームだけが乗降に使われていて、
鉄骨組みにコンクリート床とした簡素なホームの内側線は専ら通過列車専用となっていた。
この区間では1996年まで、下り一番列車と上り最終列車がDD51牽引の客車列車で運行されていた。
山陰本線最後の長距離鈍行521・522列車の末端区間だ。
この両列車は、土曜日を含む平日5両・休日3両の12系客車で運行されていた、いわゆる輸送力列車であり、
岩美から米子に至る鳥取県内ほぼ全域での通勤通学輸送を担っていた。
夕方に米子を出発した522列車は、通勤通学客を乗降させながら午後8時前に鳥取に到着した。
国鉄時代を彷彿させる17分間のやや長い停車中に幾人かの通勤客を乗せるも、
岩美に到着する頃には実質的にこの列車の使命が終わる。
岩美では後を追ってくる特急出雲4号に道を譲るため、待避線に入り時間を潰す。
海辺の東浜を過ぎ、兵庫県最初の駅・居組ではキハ47の回送列車と交換、
棒線駅の諸寄を経て21時05分に浜坂に到着、ここから最終列車となる。
この頃には、車内を見回しても乗客はほんの僅かであり、列車が停車したホームにも人影はない。
客車列車特有の静寂のなかに、天井の蛍光灯インバーターのピーという発振音と、明るくも柔らかな照明が車内を包み込む。
ゆったりとしたクロスシートは紛れも無く急行型客車であり、国鉄時代の長距離夜行列車を思い出す。
少し窓を開けると、無人駅の静寂の中にスハフ12のエンジン音がかすかに聞こえた。
浜坂から最終列車となっても脚を速めるわけでもなく、522列車は久谷・餘部・鎧と、淡々と停車していく。
もちろん、この間の乗降は皆無だ。
それでも、乗務する車掌氏はホームを確認してドアを開け、一旦ホームに降りて時計を確認する。
手笛を吹いて安全確認の後、再び客用乗降口から車掌室に戻り、
車掌室の窓から大きく身を乗り出して再度ホームの安全確認をしてドアを閉める。
そして、運転士との無線交信で列車を出発させる。
この頃の山陰本線の12系客車はすべて米子運転所
(米ヨナ)の所属で、
ハフ+ハ+ハフから成る基本編成の米子側にハ(ハフ)+ハフの平日用付属編成を増結していた。
組成にはルールがあるわけでなく、オリジナル車と1000番台がばらばらに編成されていた。
このため、5両すべてが1000番代で組成されると、
編成中にトイレが1箇所にしか無いという状況も発生し得る。
また、前述した実況のように車掌の業務効率の点で基本番台車は使い勝手が悪いのだが、
車掌が常駐する編成中央のスハフに、必ず1000番台が充当されるということも無かった。
列車は香住に到着すると、大阪からの特急はまかぜ5号と交換する。
3往復ある"はまかぜ"のうち、唯一の鳥取乗り入れ便だが、こちらも香住に着く頃には車内は閑散としていた。
この列車も城崎を過ぎてこの日の使命を終えたと言えよう。
香住の次の駅が、映像に紹介する柴山だ。
車掌氏はやはり、淡々と客扱いをこなしつつ、今夜は一人の乗客を降ろして列車は去って行った。
米子発豊岡行き522列車・4時間53分の行程も、佐津・竹野・城崎・玄武洞の4駅を残すのみである。
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