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●滝部から特牛へ ~50系客車の車内風景と走行音~ |
1991年 3月 |
2007年初稿・2019年11月 1日更新 |
これまで何度も触れてきたが、1991年3月ダイヤ改正までは山陰本線西部の下関~益田間には、
50系による客車列車が多数運転されていた。
下関地区は他の新幹線沿線同様、早期に50系が投入された地域であり、
国鉄時代は出雲や鳥取方面からの直通普通列車が浜田や米子、福知山所属の旧型客車で、
そして下関ローカルとも呼べる主に山口県域の(当時としては)短距離の列車が50系で運行されていた。
その後、民営化で旧型客車の淘汰と長距離列車の系統分割は進んだが、
1991年当時はまだ50系の客車列車がローカル急行と共に多数残存していた。
この日は、前日の浜田~下関間の乗り潰しのあと、当日中に益田へ引き返して投宿。
翌朝早くに益田から小串まで乗車して、再度上りの828レ・益田行きに乗り換えたようだ。
もちろんこの間に乗車したのはすべて客車列車だった。
上り列車に乗り換えたのはお昼頃だろう。次の湯玉では下りの急行さんべと交換した。
この当時、急行さんべは鳥取発着であり、末端部分が普通列車として運転されていたにもかかわらず、
この時間に当地へ到達できていた快速ランナーだった。
さんべとの交換を終えると客車3両を従えたDD51は軽快に走り始め、
西長門の美しい海岸線を見ながら宇賀本郷・長門二見を経て内陸の滝部へ至る。
旧・豊北町の中心駅である滝部では相応の乗車はあったものの、
3両編成を混雑させるほどの人数ではなかった。
私の乗っていた3両目は先ほどと変わらぬ、ほぼ無人のまま滝部を後にした。
ご紹介する映像は、この828レが滝部から特牛に至る行程の車内を撮影したものである。
50系客車の特徴のひとつは甲高い走行音だ。
この客車は当初から通勤輸送を目的として設計された客車である。
そのため枕バネも立ち客まで考慮した固めのチューニングだったことは容易に想像が付く。
空車同然の状態では特に甲高く感じられた。
これは、同じ山陰線を走った旧型客車や12系といった、
優等列車用に設計された客車の穏やかな乗り心地とは明らかに異なっていた。
この乗り心地を初め、セミクロスシートでボックス席にテーブルも無い、近郊型車両の車内設備に広幅ドアの外観、
といった設計の無機質さは、かつて客車普通列車が持っていた郷愁を失わせることとなり、
多くの客車ファンにとって魅力のない存在と映ったことだろう。
こうして50系客車は全国で危機的な速度で数を減らしつつある間も、
鉄道趣味者に注目されることは殆ど無かった。
しかし、この車両が客車であることは紛れもない事実であり、電車や気動車には無い静粛さ、
(東北や北陸地区には無いが)冬季の蒸気暖房の温もりは、他の車両には代え難い趣があったものだ。
残念ながら、民営化から5年が経ったこの頃には列車運行におけるコストカットも徹底されはじめ、
牽引する機関車は転線直前になるまで機関始動せず、当然暖房が入るのも客扱い数十分前からという状態だった。
殊に早朝の列車は、夜間の留置中に車内が冷え切ってしまうのと少ない乗客のため、
暖房が効き始める頃には終点に着いてしまうという事象すらあった。
滝部を出た列車は内陸部に位置する特牛に向けて上り勾配を進む。
DD51にとって50系3両は軽負荷のはずだが、無理に引き上げることもなく徐々に速度は落ちていく。
サミットを超えると再び加速しつつ短いトンネルを抜け、下り坂を駆け下りたところが特牛だ。
列車が減速すると車内放送。
「間もなく特牛に着きます。」
国鉄時代の優等列車を思い起こさせる、凛々しい澄んだ声だった。
(1) | この映像はカメラを手持ちで撮影したため、全編にわたって画面が揺れて見辛くなっています。どうぞ御容赦下さい。 |
(2) | 本文中の写真は、すべてが動画と同時に撮影されたものではありません。 |
(3) |
本稿の動画はご覧のウィンドウサイズに応じて最大1280×720ピクセルまで拡大、あるいは全画面表示ができます。 但し、元動画はアナログテレビジョン程度の解像度で撮影されたものですので、ぼやけた画像となることをご理解下さい。 |
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